
学校法人 白根開善学校
名誉理事長 本吉修二
漠然と学校をつくろうという思いは大学2年の頃である。恩師村井実教授(元慶応義塾大学教授)を囲む研究会で、先生は私たち弟子たちに、自分たちの学んだ教育の理論を実践するための学校をつくることの楽しさを語られ、誰かこれを試してみてはどうかといわれた。まだ若かった弟子たちは、この学校づくりの話しにみんな情熱を燃やしたものであった。しかし、そのうち、仕事や地位が固まるにつれて、みんなそれぞれ自分たちの仕事に没頭していった。当時、私は弟子のなかでは一番若く未熟であった。これがかえって私を学校づくりにこだわらせ、走らせることになった。
先輩の沼野一男氏(現神田外語大学教授)のお世話で東邦大学の教員となった私も地位の上昇とともに、やがて40歳を超え、ややもすると、その地位に安住する気持ちが強くなった。あれほどまでに情熱をもやした学校づくりの理想も消えようとしていた。しかし他方では、人生の半分を過ぎて人生の終点が望めるようになって、ここが最後の決断の時と思うようにもなった。
世の中は受験地獄と呼ばれるようになり、教育をめぐる子どもたちの悲喜劇は日常茶飯事となってきた。当時、大学生たちを相手にしていると、まじめではあるが、ちんまりとまとまった活力やのびやかさのない若者たちとの印象が強かった。激しかった大学紛争の終息した後では、ことにその傾向は強まっていた。教育は大学では遅すぎると思った。そしてたった一人の息子も、まもなくこの渦中に入る年となった。貧乏学者では、わが子に残してやれるものは何もない。また無理をして残すべきではない。むしろ私が残してやれるものは、子どもがどんな苦しい状況でも悠然と善く生きようとして生き抜けるように身体を鍛え、魂を養っておくことではないか。そして息子がこの世の中で平穏無事に生きるためには、この世の人間たちが、みんなより善く生きようとしていくことではないか。そのための教育をしておくことだ。高尚な理論なのではなかった。わが子かわいさの親馬鹿の結末ということができる。これが私の学校づくりの火をかき立てた。同時に私は、こんな考え方をする親たちはこの世の中に少なくないに違いないと考えた。こういう思いにかられた父母たちの力を集めて学校をつくろうと考えた。つまり父母立学校の構想である。当時慶応普通部教諭の香山芳久さんの感受性豊かで鋭い分析力に助けられ、一緒に現在の学校教育の問題点を吟味しながら、私の学校の構想は固められていった。私のこの話しを聞いた学生たちは、やってみるしかないとけしかけた。私はそれに乗っかり「やってみるか」と口走ってしまった。もう引き返しはできなくなった。この学生たちは物心両面から私を援助し励ましてくれた。私は、この発言を自らに向かって繰り返すことによって、自分をがんじがらめにして前進し続けた。